稽古場カフェ


▷Project

水天宮ピットの稽古場を借りて、なんとなく三週間ダラダラ過ごしてみる試み。

もともと秋口に本公演を打つために追い込み用に押さえていたのだが、その前に鹿島が演出助手として入ったSPAC『繻子の靴』での経験を咀嚼すること(2018年5〜6月は約ひと月合宿生活をしていた)や、移住先を探す時期が重なり、本公演を見送ったところから企画された。この時期は稽古場にもなる広めの物件を借りることも検討しており、実際に広いスペースを所有しても使い道があるかどうか、ひとまずレンタルスペース感覚で疑似体験してみるという意図もあった。

同じ建物内で他の稽古場が本番に向けて苛烈を極める気配に満ち満ちているなか、好きな時間に来てコーヒーを淹れて飲んだり本を読んだり、知り合いが来たら雑談したり、使いたい人に貸したりする場をひらいた。

鹿島にとっては、俳優の現れない広い稽古場で、ひとり自問自答し続ける瞑想のような時間となった。

そのほか、工藤順・藤田瑞都らと翻訳同人チーム「ゆめみるけんり」に掲載予定だったテクストの読み合わせや、平井光子とロブ・モレロによるプロジェクターを使った実験&小発表もおこなわれた。

これらはそれぞれのその後の活動へと繋がる契機となる。


▷Concept

〈稽古場〉を思考してみる 

あるいは〈稽古場〉という名の、詩のようなものに関する考察



▷滞在ノートより抜粋

2018.08.27.

オフィス兼稽古場の疑似体験。

現在の稽古場/事務所よりも広い空間を前に考えてみる。

部屋に入ること、入場、挨拶から参加までのプロセス……。

誰かが遅れて入る、関係性の変化、空間の目的が強まっていく。

空間によって感じ取らされるもの、自然光、暗がり、目的から離れて……。

日常の延長にありながら日常を忘れていく場所。

そんな場所に必要なものは一体何か? そこに立つとは何を感じるために?

そこに一体何が潜んでいるのか?同じ出来事がここでも繰り返されることを誰が望んでいるのか?その時、何を感じる?誰のために?

俳優はこの場所でいつ〈俳優〉になるのか?

作業灯(蛍光灯)は誰を支えるためにあるのか? 

眼。

眼のことを考えすぎてやしないだろうか、眼が忘れさせているもの。

プロセニアムアーチが眼を導く、同時に観る者の身体も支える。

「〜したい、〜見ろ」ではなく、にじみ出て想起されるもの。

自然光はこんなにも濃淡と奥行があるのに。

出会い直すこと。生成の予感の刻。

劇場は何故自然光を遮断し、音を消し、密閉したのか?

空間の広さによって生み出すことができる思考は存在する。

都市の中に突如現れる〈抜けた空間〉、劇場の役割?

古代ギリシャの劇場は、海を背後にした舞台面だったという。

それは結果としての光景だが、日常としての景色はどんなものだろうか。

そして、古代ギリシャに稽古場は存在したのだろうか?

劇場の似姿としての〈稽古場〉、仮そめ、代用としての場所……。

〈稽古場〉はいつ、誰が、どのような必要から求めたのか?

果たして我々はまだそれを必要としているのか?


2018.08.28.

効率性や機能性から離れた領域で営まれる演劇

それらと関わる稽古場は、いつも余計者たちがたむろう

自分の出演シーンを待つ間の姿、喫煙所のにぎわい、弁当をひらく者

この時間、彼らは何から解放されているのか?

あるいは彼らは誰かの代わりに何かを得ているのか?

喫煙所と休憩室は、稽古場よりも豊かな時間をもたらしていることがままある。彼らはより本音で喋っている。

劇作家が稽古場に入るとき、台本を用意しプランがありそれは彼の舞台における世界観を再現するものとしてある。台本を書くことのない演出家であっても、上演内におけるDramaturgieを設計する以上、一定の再現を求める。稽古場は、誰かの目的によって規定され、その実現に向かって多くの人々が己の意志を他人の意志とを調整する場となる。

ひとりだけの稽古場。それは本当に存在しうるのか?

衝撃・驚き・発見……これらは再現と反復の場において起こりうるのか?それはプランニングのエラーでしかないのではないか?もし、エラーが新たな可能性を生み出したとするならば、それは誰の、どんな状態が受け入れることができるのか?


2018.08.30.

広さとともに思考すること。

空間に対する高揚を求めつつ、眼が読み取っている静けさ、想像力の立ち現れている直前の沈黙を見つめること。

私たちは何を整理してしまった世界にいきているのか?


2018.08.31. *プロジェクター・チームが稽古場を使用

昼から水戸芸術館にて開催されている内藤礼展へ。

「明るい地上には あなたの姿が見える」 on this bright Earth I see you.

「地上に存在することは、それ自体、祝福であるのか」

「地上の生の光景」

「地上の生の内にいる者(私)が、生の外に出て、他者の眼差しを持ち、生の内を眼差す無意識の働き」

「私たちは遠くから眼差され、慈悲を受けとっているのではないか」

可感化する空間。

内藤礼による空間体験は、稽古場で意識している感覚に通じている。

〈可感化〉、稽古場が作業スケジュールによって切り落としているものの一つ。

あるいは、劇場空間の似姿でしかないことによって捨象されているものの一つ。

〈想定〉とは、共有あるいは共に分かつことを目指した途端に壮大な力を必要とする。

〈無い〉のに〈ある〉とする補正と、〈ある〉から〈感じる〉にする想起は異なる力だ。


2018.09.01.

フェルナンド・ペソア『アナーキスト・バンカー』を通読。

今後のスケジュールと展開の可能性について打ち合わせる。

アルフォンソ・リンギス『LOVE JUNKIES』の打ち込み作業。演出上のイメージを書き出す。

夕方、四谷三丁目の茶会記にてトラークルの詩の上演を観る。

プロジェクターによる映像、取材は大切だと思わされた。

ディテールを規定すること、演出はまずそこからスタートする。

では、そのディテールは何を理由に決定するのか?

カフェスペースでの公演は、余計な情報が多い。空間が落ち着かない。俳優が黙らせるしか手がない。

空間を語らせるには、まず空間を黙らせる必要がある。

スタンドライトで稽古場の壁を辿って照らしたら、無数の突起が見えた。

これもまた光によってあぶり出されたディテールだ。

感覚を揺さぶる要素を見つけるには、そこにコネクトするまでの感覚のプロセスを設計する必要がある。

そのディテールもまた理由を決めなければならない。

だが、それはテクストに書いてあることだろうか?

茶会記で観たトラークルには、視激はあっても生成は無かった。


2018.09.02. *プロジェクター・チームが稽古場を使用

残暑のなかの雨、降り止まず。逗子の海を見にいくことはかなわず。

富ヶ谷の「Ka na ta」まで注文していたパンツを取りに行く。

〈稽古場〉と感覚の探究、この一週間考えているのはこの二つを結ぶこと。

しかし、感覚とは固有のものである以上、誰かと共有することができるのだろうか?

服への興味は、感覚と服を問題にしたデザイナーへの興味だ。

彼らは感覚の共有の場として服を用意した。フィールドは肌にあるが、時に動作をも含めて身体が感覚を受け取る場としての服を目指している。

水戸芸術館で買った『てつがくを着て、まちを歩こう』を読む。

感覚に語彙が追いついてない箇所に現代思想の分析が加わる。

批評には興味が無い。弱く、脆い現象への付き合い。

風、水、重さ、光……再び出会い直し、それが演劇になりうるか?

宮益坂近くの喫茶店で「〈Ship〉Ⅱ」を振り返りつつ、我々の時代において何が結び直されようとしているのか、それによって何が見えてくるのか。

一人で考える。

届いたパンツにどんなコンセプトを込めたのか? このシルエットと素材が必要だった理由とは何か? 物との交渉は現代美術的な振る舞いだが、人は今どこにおいてそれに付き合う余裕を持てるのだろう?


2018.09.03.

〈Ship〉のインタビュー、雑談、プログラムについて語る。

その後、〈目的〉を喪った空間(稽古場)は、人をたむろわせる。

稽古、事務作業、工作etc……。

東京都心の真ん中に、ぽっかりと無目的にひらく。

〈器としての空間〉を舞台美術のコンセプトに加えたい。

生地を眺めるような、隅々の暗がり、計れない奥行き。

〈世界〉は我々をどう包んでいるのか?

〈稽古場〉もまた感覚と共にある。

俳優が感覚を繋げていくプロセスの追究。

演劇はあらゆることが既製品化している。

それを壊す作業をしている。


2018.09.05.

工藤(順)くんが持ってきたフェルナンド・ペソア『船乗り』(共訳:藤田瑞都)を読む。

テクストが薄明かりの空間に響く。

不在を深める、エドガー・アラン・ポーのサスペンス(推理小説の呼吸)、メーテルリンク

ペソアはこのテクストでベケットを予見しているのかもしれない。

現実/観客の所在を言葉によって反転させること––非現実の優位

〈劇〉が何を引き起こすものとしてペソアの中で認識されているか。

何も確かなことが語られない場、しかもそれによって増幅する不安。

目的を持たない〈稽古場〉が廃墟に等しいように、

観る者が実在を捉えられなくなるプロセスは奈落を眺める営為。

言葉が連なり、堰き止められ、ブレーキがかかる「……」

幽霊でもない、死体と数の合わない、曖昧な記憶。

境目––それはどことどこにあるものか?

〈我々〉を、どこかでみている者がいることで生じる意味。


▷Performance

プロジェクターを使ったパフォーマンスに興味関心のあった平井光子による試演会。

平井光子による『アガタ』の試演


会場        水天宮ピット 小スタジオ2


テクスト      マルグリット・デュラス『AGATHA』より


出演        平井 光子 瀧腰 教寛(映像)


映像・音響     ロブ・モレノ


▷2022.05.22.の時点での雑感

スケジュールの埋まっていない稽古場を三週間運営すること。ただそれだけの試みであったのだけど、振り返ると未来に向けて小さくない流れを生み出した機会だったと言える。

たとえば、平井光子であればここで試した映像を使ったパフォーマンスが、そのままコロナ禍における映像作品製作へと繋がり、独立後の活動を方向づけたのは間違いない。また未邦訳のテクストを持ってきた工藤順・藤田瑞都は、翻訳したテクストを俳優が実際に空間に展開するのを見せてフィードバックする経験を得たことで、その後『LOVE JUNKIES』や『A MAN』での共同作業へと繋がっていく。私においては、この年の末に鎌倉へ移住し、〈稽古場〉以前のアプローチを深めていくことになった。どれもこれも即興と観察、それと幾分かの勇気のいる放棄による賜物だった。

「専用の劇場が欲しい」あるいは「稽古場を持ちたい」という願望は、演劇活動を続けていると誰もが口にする。しかしながら、それを所有した創作や運営に関する実際的な必要やマネジメントは案外クリアでなかったりする。また2012年に施行された「劇場、音楽堂等の活性化に関する法律(略称:劇場法)」により、〈公共性〉をめぐる議論はアーティスト間でも交わされるようになったが、大概が理念先行で活動実態の検証を折り込む前に定義と解釈で盛り上がっては、最終的に指定管理者の都合に沿った枠の中にアーティストの思考も活動も落ち着いていく現象が散見された。助成金申請書向けの構文を臆面もなく使う者も増えた。

念願の劇場あるいは稽古場を手にしても貸しスペース経営者に転じてしまう問題。

活動における〈公共性〉などの社会性を問う要素を規約・内規といったものに反映させ書き起こすことが自己目的化し、活動実態と欲求レベルから考察しない風潮に対する違和感。

〈稽古場カフェ〉は、ものづくりをする際の欲求がわきおこる瞬間を待ち続けることを第一とし、その上で「いま自分たちにとって稽古場は必要なのか?」「自分たちの活動を通じて形成されている〈公共性〉とは何か?」という問いに向き合っていく経験となった。

……と、お堅くまとめると上記の通りなのだが、「たとえ所有していようと空いていようと、思ったよりも〈稽古場〉は使われない」し、「そもそも〈稽古場〉という〈場〉の成立には、物質的な空間以前の領域が存外広く」、「そうした前段階の構築をすっ飛ばして〈公共性〉を謳っても誠意やトレンドフォロワーをアピールする以上のことにはならない」というシンプルな気づきを得たのだった。〈在ること〉と〈成ること〉の話と言ってしまえば早いのだけれど、恐ろしいくらいそれに気づけないで済んでしまうほど私たちは何かに急きたてられている。気づいたら、立ち止まっていい。

鹿島 将介  


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